2018年5月1日火曜日

15年戦争史概観(IV)


- 戦争責任問題を考えるための予備知識
(4)日独伊三国同盟から日米開戦決定まで
*急変する世界大勢に翻弄される短命内閣の連続
*日独伊三国同盟締結と対ソ連戦略、武力南進
*さらなる武力南進から開戦決定まで
*結論:対米英開戦の原因と最終的結果

急変する世界大勢に翻弄される短命内閣の連続
  日中戦争が日本の陸軍や政府の予想に反して長期化する中で、1937年11月に成立していた日独伊三国防共協定を軍事同盟にまで格上げしようという提案が、1938年8月にドイツ側から出された。ドイツにとってソ連のみならず英仏両国に対しても圧力となるこの同盟は、日本陸軍にとっても日中戦争の膠着状況を打破するために有効であると考えられた。なぜなら、この軍事同盟により、英国とソ連と対抗しているドイツとイタリアが英ソを威圧することで、日中戦争のゆえに弱体化している日本の対ソ連戦準備を補うことができるし、英ソ両国が行っている蒋介石政権への軍事援助も阻むことができると考えたからである。ところが、元老・重臣などの宮中グループと海軍は、防共協定の軍事同盟への格上げは英米との関係をさらに悪化させると懸念してこれに反対。とりわけ、当時の近衛内閣の海軍大臣・米内光政と海軍次官・山本五十六が強く反対し、陸軍大臣・板垣征四郎と対立。この対立が他の閣僚たちの間にも確執を引き起こして閣内不統一状況となり、日中戦争の行き詰まりもあって、近衛は首相の座を投げだし、内閣は1939年1月14日に総辞職してしまった。
  翌日、右翼国家主義団体・国本社の会長で枢密院の議長でもあった平沼騏一郎が首相に任命され、組閣。ところが陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣をはじめ近衛内閣の閣僚7人を留任させたため、閣内対立をそのまま引き継ぐ形になってしまった。
  同年5月11日には、満州国興安北省とソ連支配下にあるモンゴル人民共和国(いわゆる「外蒙古」)との国境係争地近くのノモハン付近で、外蒙古軍と満州国軍との武力衝突事件が発生した。日本側は外蒙古軍が「越境」したと見なし、これを撃破しようと第23師団から部隊を出撃させたが、ソ連軍の反撃にあって全滅状態。これがきっかけで5月下旬から断続的に日本軍とソ連軍の間で大規模な戦闘が起き、8月20日にはソ連軍が4狙撃師団、3戦車旅団、3装甲旅団の大兵力で総攻撃を開始。この戦闘に投入された日本軍は、8月下旬までに壊滅状態となってしまった。日本側はこれを「ノモハン事件」と呼んだが、実際には「ノモハン戦争」と称すべき内容の激戦であり、日本軍側の死傷者は1万7千人(うち死亡者7,720人)を超え、兵力の消耗率は32.2%(第23師団の消耗率は79%)という高いものであった。ソ連側も1万人近い戦死者と1万6千人ほどの戦傷・戦病者を出した。
  ところが、この戦闘がまだ続いていた8月23日に、ドイツが突然に独ソ不可侵条約を締結した。ドイツは、ポーランド侵略計画の実施をまぢかに控え、東欧と西欧での同時二正面戦闘を避けるために一時的にソ連と提携しておく必要があったし、東方で「ノモハン事件」を抱えていたソ連側も、西方での安全を確保しておく必要があった。したがって、この条約は、両国にとって一時的な妥協策として締結されたものであった。しかし、対ソ政策という目的で、日独伊三国防共協定の軍事同盟への格上げを審議していた平沼内閣にとって、この突然の独ソ不可侵条約締結はあまりにも衝撃的なものであり、8月28日には政策の行き詰まりを理由に総辞職してしまった。
  8月30日に予備役陸軍大将(「予備役」とは現役を終えているが、非常時にだけ召集されて軍務に服す軍人)阿部信行が首相となり、組閣。その2日後の9月1日にドイツがポーランドに侵攻したのを受けて、英仏両国がドイツに宣戦布告し、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まった。こうした突然の状況変化のため、日独軍事同盟で日中戦争の局面打開をはかろうとした陸軍も、方針再検討を迫られる事態となった。阿部内閣は、日中戦争解決を最重要視して欧州での大戦への不介入を宣言し、「ノモハン事件」を停戦に持ち込んだ。しかし、これに先立つ1939年6月には、日本軍が天津のイギリス租界を封鎖したことから、7月26日にはその報復として米国が日米通商航海条約の廃棄を通告。8月には日本軍がイギリス植民地・香港に隣接する深圳を占領し、さらに華北から英仏駐屯軍を撤退させたため、中国における権益を阻まれた英仏米との対立はさらに悪化。内政面でも軍需インフレーション、物資不足、増税、貯蓄・献金の強制、公債負担など、国民の負担と犠牲は「満州事変」期の状況と比較にならないほど増大していた。そのため、1939年末には阿部内閣退陣要求の声が強まり、軍部も阿部内閣を見限ったため、わずか4ヶ月半で退陣に追い込まれ、1940年1月14日に総辞職。
  1月16日、今度は、親英米派・穏健派である予備役海軍大将・米内光政を首相とする内閣が成立。しかし1月末には日米通商航海条約が失効し、米国はまず工作機械の対日禁輸を実行した。(1938年度の段階では、日本の輸入に占める米国の比率は、総額の34.4%、石油類の75.2%、鉄類の49.1%、機械類の53.6%に達しており、米国への依存度がひじょうに高かった。)米内内閣は、悪化した英米との関係の改善を少しでもはかろうと試み、3月には陸軍が汪兆銘政権という傀儡政権を南京に樹立させ、蒋介石政権とも、謀略的ではあるが、一応「和平工作」を進めることを了承した。
  ところが4月にドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを制圧し、5月にはオランダ軍、ベルギー軍を降伏させて、英仏軍をダンケルクにまで追い詰め、6月中旬にはパリを無血占領するという電撃作戦を展開。この急激な大勢変化に押されて、6月10日、イタリアも英仏両国に対して宣戦を布告。日本、とりわけ軍部の中には、このドイツの圧勝に幻惑されて再び日独伊三国同盟を推進しようとする革新派がにわかに台頭。東南アジアを植民地支配していたフランス、オランダ、イギリスがドイツに敗北したことは、日中戦争に行き詰まって資源確保にも難渋していた日本にとって、仏印(フランス領インドシナ=現在のヴェトナム・カンボジア・ラオス)や蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)などの資源を確保し、援蒋ルート(蒋介石援助ルート=英領ビルマ - 仏領インドシナ雲南重慶を結ぶ線)を遮断する絶好の機会到来と彼らはとらえた。とりわけ、当時は一大産油地帯だった蘭印の石油は魅力的であった。蘭印や仏印がドイツ支配下に入る前に日本が東南アジアへの侵略を完遂させようという「南進(南方進出)論」と、その結果必然的となるであろう「対英米対決論」があからさまに主張されるようになった。
  政友会や社会大衆党の一部の親軍派政治家たちがこうした主張を支持するために「聖戦貫徹議員連盟」を組織し、これに親軍的ファッショ政党である国民同盟、日本革新党、東方会などの政治家たちも加わった。こうした支持を背景に軍部革新派は、親英米的な米内内閣を打倒するため、軍部大臣現役武官制を利用して、陸軍大臣・畑俊六を単独辞職させて、7月16日に米内内閣を総辞職に追い込んだのである。かくして、米内内閣もまたわずか6ヶ月という短命内閣で終わってしまった。平沼、阿部、米内と次々と短命内閣が続いたことは、英米協調路線かそれとも日独伊三国同盟路線か、どちらを国家方針とするかの模索に、この時期、日本が揺れ動いていたことの表れであった。

日独伊三国同盟締結と対ソ連戦略、武力南進
  1940年7月17日、枢密院議長・近衛文麿に再び組閣の大命が下り、東条英機を陸軍大臣、吉田善吾を海軍大臣、松岡洋右を外務大臣に任命して第2次近衛内閣が成立。7月26日の閣議で、陸軍省軍務局の立案による「基本国策要綱」を決定したが、その根本方針は、日本、満州、支那(中国)の「強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことを目的とし、そのために日独伊三国同盟と武力南進という2つの政策をとるというものであった。「大東亜共栄圏の確立」(松岡洋右が外務大臣就任談話の中で使った表現)と「高度国防国家体制の確立」いう軍事拡大主義的な方針によって、ここにその後の日本の運命が決定づけられた。日独伊三国同盟は9月27日にベルリンで調印され、これによって、三国枢軸(Tokyo-Berlin-Rome Axis)と米英陣営連合諸国(The Allied Power)の世界的規模での対抗、すなわち世界帝国主義の二大陣営の対抗が明白なものとなった。
  第2次世界大戦は、根本的には、この二大陣営による植民地再分割戦争であったと言える。すなわち、アジア・アフリカ諸国を植民地として領有し続けようとうとする富める先進資本主義諸国である英仏蘭米に対して、植民地を拡大しようともくろむ後発の資本主義諸国である日独伊の間の戦争であった。ヨーロッパ戦線での戦争は、アフリカ地域で英仏蘭が支配する植民地のドイツ・イタリアによる争奪戦であり、アジア・太平洋地域では英仏蘭米の支配下にある植民地・半植民地の日本による争奪という性格をもつ戦争であった。ただし、枢軸国側の政策は、全体主義に基づく「新秩序建設」という名目での膨張主義であるのに対し、連合国側は、先進資本主義諸国による植民地領有継続のための戦いを、「民主主義防衛」と「不拡大主義」という美名の旗を掲げることで正当化した。
  日本がとった最初の「武力南進」行動は、北部仏印への日本軍進駐であった。6月にフランスがドイツに敗退したのに乗じて、日本は仏印の援蒋活動の中止を要求。フランスがこれに応じると、その上で今度は、フランスに対して日本軍5千名の北部仏印駐屯、ハノイなど3飛行場の使用と日本軍の通過を認めさせる協定を9月22日に成立させた。ところが、翌日9月23日には、参謀本部作戦部長・富永恭二が武力進駐の強行を命じ、中国・仏印の国境に待機していた第5師団(広島、師団長・中村明人中将)が、協定を無視して越境・侵入。

  アメリカはこうした日本の行動に対し、7月には、石油ならびに兵器製造に必要な屑鉄の輸出許可性、航空機用ガソリンの対日禁輸を実施。9月23日の仏印武力侵攻の3日後には、屑鉄の輸出を全面禁止した。その一方で、9月25日、アメリカは中国に2,500万ドルの借款を供与。12月1日には対日禁輸品目に鉄鋼、鉄合金などを追加し、翌日の12月2日には中国への1億ドル借款案がアメリカ連邦議会で可決された。日本は、ロンドンに亡命政府を置いていたオランダとの交渉で蘭印からの石油輸入をはかろうとしたが失敗。敵国ドイツと同盟にある日本にオランダが協力するはずはなかったが、仏印に日本の軍事基地を置いて威圧すれば、蘭印も石油供給に応じるかもしれないという甘い考えは、果たして誤算に終わった。
  かくして南方資源の確保がますます切実な問題となってきた日本は、武力南進の態勢をさらに強化していくことになる。1941年4月17日に大本営陸海軍部が作成した「対南方施策要綱」では、仏印、タイ、蘭印での資源確保にあたり、「米国が単独若しくは英、蘭、支と協同し帝国に対する包囲態勢を逐次加重し帝国国防上忍び得ざるに至りたる場合」には「帝国は自在自衛の為武力を行使す」と明記され、米英との戦争も辞さないという決意が確認された。
  しかし、日本がこのような武力南進を推進していくためには、北方すなわちソ満国境地域の安全を確保しておく必要があった。ノモハン事件で惨敗した経験からも、対ソ戦準備のためには戦備の大増強が必要なことは明らかであったが、そのためには「南進」遂行の間はこの北方で静謐が保たれなければならなかった。そこで外務大臣・松岡洋右が考えたのは、日独伊ソの四国協商(「協商」とは同盟関係ではない親善関係)をつくり、これを日独伊三国同盟と連結させることで米英両国を圧倒し、日独伊が主導する「世界新秩序」を作るという構想であった。1941年3月から4月にかけて、松岡はこの構想を携えてソ連とドイツを訪問するが、独ソ不可侵条約にもかかわらず、すでに対ソ攻撃を計画していたドイツはこの提案を事実上無視。ドイツの計画について全く知らなかった松岡は、そこでソ連に日本との不可侵条約締結を提案したが、ソ連側は不可侵条約ではなく中立条約を提案。松岡はソ連の提案を受け入れ、4月13日に5年間有効の日ソ中立条約が調印された。
  日本が「南進」を遂行していくためには、北方での安全確保と同時に、南進に対する最強の妨害者とみなされるようになったアメリカとの交渉も決定的に重要となってきた。1940年11月、近衛首相は米国大統領フランクリン・ルーズベルトと親交のあった野村吉三郎海軍大将を駐米大使に任命し、翌年1941年2月から主として国務長官コーデル・ハルを通しての折衝が開始された。これとは別に、4月には、ジェームズ・ウォルシュ、ジェームズ・ドラウトの2名のアメリカ人神父と産業組合中央銀行理事・井川忠男らが作成した民間私案の「日米諒解案」が、日米両政府に提案された。しかし、その内容は、アメリカが日本軍の中国からの撤兵と満州国承認を前提に、蒋介石政権と汪兆銘政権の合流をはかり、「南進」も平和的手段によるものという、日本にとってはきわめて都合の良いものであったが、米国政府にとっては受け入れがたいものであった。
  一方、ハルは、5月に、領土主権の尊重、内政不干渉、機会均等、太平洋地域の現状不変更の、いわゆる「ハル四原則」を日本側に提示。ところが、親独強硬派の外務大臣・松岡は、「日米諒解案」にすら反対で、「ハル四原則」には絶対反対を主張。5月3日に開かれた大本営政府連絡会議では、松岡の強硬論が通り、陸軍側も、アメリカが要求する中国からの撤兵、南進論放棄、日独伊三国同盟からの離脱を拒否すべきだと主張した。
  6月22日、突然、ドイツ軍によるソ連への奇襲攻撃が決行され、当初、ソ連軍は総崩れとなった。日本は、三国同盟にしたがえば独ソ戦に参加しなければならないが(事実、イタリアは参戦した)、日ソ中立条約にしたがえばソ連に対して中立を保たなければならない。日ソ中立条約を結んだ本人の松岡は、即時対ソ戦を主張。しかし、大本営政府連絡会議では様々な意見が出されて紛糾。結局、7月2日の御前会議で、「対英米戦準備を整え……南方進出の態勢を強化」しながらも、「密かに対ソ武力的準備を整え……独ソ戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と決定された。
  具体的には、極東ソ連軍の多くが対独戦投入のためにヨーロッパに移送され、ソ満国境地域のソ連防備が手薄になるのを待って、ソ連攻撃を実行することにしたのである。そのため、7月2日のうちに、日本帝国陸軍創設以来の空前の規模での、総兵力16個師団85万人にのぼる動員命令が允裁(天皇によって認可)された。この大作戦には、「関東軍特殊演習(関特演)」 という軍事演習を装う秘密作戦名が使われた。しかし、ドイツ軍の侵攻で当初大混乱におちいったソ連軍も、7月に入ると態勢を立て直して長期抗戦体制を整えたため、極東ソ連軍の西方移送は日本が期待していたほど大規模なものにはならなかった。そこに後述するような武力南進での問題が急迫したため、参謀本部は8月9日に年内の対ソ武力行使をあきらめ、南進とそれによって起きると予想される対英米戦の準備に専念することにしたのである。

さらなる武力南進から開戦決定まで
  「武力南進」の次なる目標は、北部仏印に続いて南部仏印であった。兵力4万の第25軍(軍司令官・飯田祥二郎中将)を海南島に集結させ、その上で7月14日からフランスのビシー政府と交渉を行い、日本の要求を承諾させた。7月28日から第25軍は南部仏印に上陸を開始し、サイゴンを中心に8航空基地、サイゴン・カムラン湾に海軍基地を設定。結局、こうして日本は仏印全土を日本軍の制圧下に置いたのである。これによって、英国の東アジア支配の最大の根拠地であるシンガポールが、日本軍の空爆圏内に入ることとなった。
  仏印=インドシナは、日本軍と仏印当局の二重支配下におかれ、日本軍は民族運動を厳しく弾圧していた仏印当局を使って、住民から食糧・労働力を供出させただけではなく軍事費まで負担させるという圧政を行った。この二重支配は、1945年3月に日本軍が仏印当局を攻撃して単独支配を行うようになるまで続いた。

  7月2日の御前会議の決定と南部仏印への進駐計画を諜報活動で知ったアメリカは、対抗処置として7月25日に在米日本資産(5億5千万円)の凍結を発表。翌日にはイギリス、オランダも同様の措置をとった。アメリカは、さらに8月1日、日本への石油輸出の全面禁止を決定。この決定は、日中戦争を通じてアメリカと敵対関係を深めながら、そのアメリカに戦略物資面で、とりわけ最も重要な石油の供給の75%をアメリカに依存してきた日本にとっては致命的な打撃となるものであった。
  この時期になると、軍部は、陸海両軍とも石油確保困難の焦りから、対米英戦の決意をさらに強めた。米国の対日石油全面禁輸決定の前日の7月30日、軍令部総長・永野修身は「油の供給源を失うこととなれば、……戦争となれば1年半にて消費し尽くすこととなるを以て、寧ろ此際打って出るの外なしとの考えなり」と天皇裕仁に上奏した。9月6日の御前会議では、裕仁は外交交渉の続行の希望を暗示させながらも、「帝国<=日本帝国>は自在自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整」し、「外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」という内容の「帝国国策遂行要綱」の決定そのものは否認しなかった。「帝国の要求」とは、具体的には、米英が「帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること」、「極東に於いて帝国の国防を脅威するが如き行動に出ざること」、「帝国の所要物資獲得に協力すること」の3つであった。
  ところが、国民に対して政府は、無謀な中国占領や「武力南進」の実態については説明せず、もっぱら米英支蘭が一方的に日本を包囲封鎖しつつあるという「ABCDAmerica, Britain, China and Dutch)包囲陣」の不当性を強調し宣伝することで、来たるべき対米英蘭戦争の正当化に努めたのである。(日本の右翼たちはいまだに、このABCD包囲網で日本経済が立ち行かなくなったため、やむなく戦争という手段に訴えたという戦前プロパガンダをそのまま戦争正当化のために使っている。)
  近衛は9月6日の御前会議以降、米国との妥協策を模索し始め、10月に入ると、中国からの撤兵を陸軍大臣・東条英機に繰り返し促すようになる。ところが、中国からの撤兵を受け入れれば満州国も、引いては朝鮮統治も危うくなると考えていた東条は、近衛の提案を頑なに拒否し、10月14日の閣議で日米交渉打ち切りを力説した。これを受けて10月16日、近衛内閣はまたしても突然総辞職してしまった。(華族出身のお坊ちゃん育ちの政治家は、困難な状況にぶつかると、すぐに政権を投げ出してしまうという悪い癖がある。旧熊本藩主細川家の子孫で且つ近衛文麿の孫に当たる細川護熙も祖父同様に政権を途中で投げ出した。)
  東条は、後継首班に東久邇宮稔彦王を推薦した。しかし、アメリカとの戦争の結果はひじょうに厳しいものとなると思っていた内大臣・木戸幸一は、「皇室が国民の怨府となり国体に迄及ぶ」、すなわち開戦責任が皇室や天皇にまでおよぶ危険性があるとして、これを拒否。むしろ、裕仁に忠実な東条自身に、「陛下より御命令ありて御前会議(決定)を白紙に返し更に事態を検討せしめる外ない」という考えから、東条を首相(陸軍大臣兼務)に任命することを推薦したと、木戸は戦後述べている。10月17日に東条に組閣命令が下ったが、木戸日記によると、木戸からは「9月6日の御前会議の決定にとらはるる処なく、内外の情勢を更に広く検討し、慎重なる考究を加ふることを要すとの思召し」であるという裕仁のメッセージが東条に伝えられた。また裕仁からも東条に直接、「時局重大なる事態に直面せるものと思う。此の際、陸海軍は其協力を一層密にすることに留意せよ」という言葉がかけられてはいるが、「御前会議決定の白紙撤回」要求を実際に行ったという記録は木戸日記の中には全く見当たらない。最強硬の対米開戦論者である東条を首相に任命して、「決定白紙撤回」にも触れず、戦争を回避しようなどというのは、木戸自身が認めていたように「一歩誤れば不用意に戦争に突入する」危険な賭けであった。そんな危険な賭けを勧めた木戸に、裕仁もまた「虎穴に入らずんば虎子を得ずと云うことだね」と言って賛成したのである。したがって、太平洋戦争の開戦責任をもっぱら東条に負わせるのは不当であり、木戸や裕仁にも大いに責任があったことは明らかである。
  東条政権の下、10月23日以降連日、大本営政府連絡会議が開かれたが、9月6日の御前会議決定が抜本的に再検討されることはなかった。結局11月5日の御前会議で、12月初頭までに陸海軍は作戦準備を終え、12月1日午前0時までに対米交渉(日本は仏印以外には進出しないから、英米蘭は石油をはじめとする物資供給を保障せよという要求)が成功しなければ、12月8日(日本時間)に開戦ということが最終決定された。
  この御前会議に先立つ11月2日、裕仁は東条に対して「<戦争の>大義名分を如何に考えるか」と質問しているが、東条は「目下研究中」としか答えられなかった。11月4日の軍事参議院会議でも東久邇宮が「聖戦の趣旨」について問いただしたのに対し、同じく「目下研究中」と述べている。一国の首相が国家創設以来の大戦争を始めようという時に、その戦争の目的すら国民に説明できないというのが、このときの日本の状況だったのである。
  11月26日、アメリカ政府は最後通牒とも呼ぶべき「ハル・ノート」を日本側に提示。これによって、アメリカは日本に、中国ならびに仏印から全面撤退し、事態を満州事変前の状態に戻すことという、日本軍がとうてい受け入れないような要求をつきつけてきた。明らかにアメリカ側も、日本との全面対決で問題を解決することを決定した上での最後通告であった。
  11月29日、裕仁は首相経験者である8名の重臣若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、林鉃二郎、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、近衛文麿を集めて、対米交渉継続か開戦かに関する意見を聞いている。林が基本的に開戦賛成、阿部が慎重論を述べたのに対し、他の6名は全員が物資補給の面から戦争遂行は不可能であり、問題解決のためには外交交渉の継続が必要であるという意見であった。ところが裕仁は、11月30日、東条に会い、さらに海軍大臣・嶋田繁太郎と軍令部総長・永野修身を呼んで戦争遂行の是非について質問した結果、「いずれも相当の確信を以て奉答せる故、予定通り進むる様首相に伝えよ」(強調:引用者)と木戸に命じたのである。翌日12月1日には、開戦に関する最後の御前会議が開かれ、全員一致で開戦を決定。参謀総長・杉山元は、「本日の会議に於いて、お上は説明に対し一々頷かれ何等御不安の様子を拝せず、御気色麗しきやに拝し恐懼感激の至りなり」というメモを残している。この会議の最後に、裕仁は「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく協調してやれ」(強調:引用者)と出席者を鼓舞している。戦後、裕仁は、「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲君主として已おえぬ事である」と述べているが、戦前・戦中の天皇制が「立憲君主制」であったなどとはとうてい言えないし、裕仁自身が最終的には東条内閣の開戦決定をかなり積極的に支持したことは間違いないのである。

結論:対米英開戦の原因と最終的結果
  結局、対米英開戦の原因と最終的な結果については、以下のように要約できるであろう。
(1)侵略戦争である日中戦争の成果をなんとしても護持し、中国からの撤兵要求ではあくまでも妥協しないという日本の頑固な態度が日米交渉を決裂させ、対米英戦へと繋がった。その意味で、アジア太平洋戦争はまさに日中戦争の延長であった。したがって、日中戦争の原因を明確にしないで、アジア太平洋戦争の原因を理解することは不可能である。
(2)日中戦争の長期化とその結果の武力南進政策によって、日本は米英との対立を深めながら、しかし同時に経済的には強く依存せざるをえないという矛盾をますます悪化させていった。米英という先進資本主義国家との「政治的対立」と「経済的依存」というこの矛盾が、後進資本主義国家=日本帝国主義が内包していた重大な問題であり、武力では解決不可能なこの矛盾を、無謀にも暴力的手段で一挙に解決しようと試み、未曾有の悲劇的な結果に終わったのがアジア太平洋戦争であった。
(3)アメリカが「ハル・ノート」で日本に突きつけてきたのは、満州事変以来、東アジアからインンドシナ半島へと際限もない暴力的拡大を続けてきた日本帝国主義に対する、米英覇権からの全面的且つ根底的な対決宣言であった。しかしながら、同時に、「ハル・ノート」には、明らかに「大西洋憲章」(1941年8月14日発表)で謳われていた反軍事膨張主義、反ファシズムの理念が反映されていた。家永三郎も名著『戦争責任』で指摘しているように、「ハル・ノート」はその意味でポツダム宣言の原型と称せるものであり、「ハル・ノート」を発展させたものがポツダム宣言であり、それが「平和憲法」にまで一貫して繋がっているのである。「ハル・ノート」を拒否して対米英戦へと突き進んだ日本は、最終的には、2千数百万人という膨大な数のアジアの様々な人々と310万人にのぼる自国民を死に追いやり、米軍の原爆を含む無差別爆撃で国土を焦土化したあげく、ようやくポツダム宣言を受諾して降伏した。こうした結果から考えるならば、「ハル・ノート」を最初から受け入れていた方が、よほど賢明であったことは明らかである。「いったい、何のために戦争をしたのか」という悔恨の問いは、ほとんどの戦争の後で常に問われる間抜けた問いであるが、なぜか人間はこの間抜けた悔恨の問いを数千年もの間繰り返している。その犠牲になった人間の総数は、間違いなく億単位の数字であろう。
































2018年4月15日日曜日

広島 集会・講演会案内


(1) 5・3 憲法記念日集会・講演会
(2) 5・11 田中利幸講演会
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日本国憲法公布71年憲法記念日
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9条改憲NO! 平和といのちと人権を! 5・3ヒロシマ憲法集会2018
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日 時:5月3日(木・祝)13:00~14:30
会 場:ハノーバー庭園(旧市民球場の北側)
デ モ:14:45~16:00
安倍晋三首相は昨年53日、日本会議が主導する改憲集会にビデオメ
ッセージを寄せた。「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」
と語り、9条改憲に強い意欲を示した。だが、いま、「森友」公文書
改ざん事件を契機に、安倍政権は終焉に向けて大きく動き始めた。止
めを刺すことができるかどうか、それはひとえに3000万人署名運動の
成否にかかっている。市民としっかり手を結び、民主主義、基本的人
権の尊重、平和主義が生かされる政治を求め、ありったけの声を結集
しよう。輝け!9条、平和・いのち・人権!
【記念講演】「復帰46年の沖縄から伝えたいこと」
仲村未央(なかむら みお)さん
 1972年沖縄市(旧コザ市)生まれ。戦後27年間続いた米軍占領から
 沖縄が日本に返還された年で、この年に生まれた世代のことを沖縄
 では「復帰っ子」(ふっきっこ)と呼ぶ。
 琉球新報記者として沖縄県政、沖縄市政、那覇市政を担当。米軍用
 地の強制収用、米軍基地から発生する爆音被害や事件事故、日米地
 位協定など住民の命とくらしに直結する基地問題を追う。その原点
 として沖縄戦と住民の犠牲、国策と地方自治についても掘り下げて
 きた。
 2002年に沖縄市議会議員(2期)、2008年から沖縄県議会議員(現在3期)。
 沖縄市立山内小学校、大口明光学園中学校・高等学校(鹿児島県在)
 琉球大学法文学部社会学科マスコミ学専攻卒。
【特別報告】「岩国からの報告」
田村順玄(たむら じゅんげん)さん
 1964年岩国市役所に就職。職場では港湾行政をあゆみ、組合では市
 職員組合委員長など就任、岩国市職平和研究所を設立し平和運動を
 になう。
 1995年市議に初当選。一人会派のリベラル岩国で23年目。基地監視
 団体「リムピース」運営委員、「ピースリンク広島・呉・岩国」世
 話人を務める。米海軍横須賀基地を母港とする原子力空母ロナルド・
 レーガンの艦載機61機の厚木基地からの移転により岩国基地配備機
 は米軍機120機(それに自衛隊機43機)となり、極東最大の攻撃拠点
 となろうとしている情勢下、岩国からの特別報告をしていただく。
『安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名』にご協力をお願いします。
【関連行事】2018広島憲法集会「マイライフ マイ憲法」(憲法ミュージカル)県民文化センター15時開演
【主 催】戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会(略称:ヒロシマ総がかり行動)
<主な構成団体>戦争をさせないヒロシマ1000人委員会/広島県9条の会ネットワーク/
               
     秘密法廃止 !広島ネットワーク/憲法と平和を守る広島共同センター   
【事務所】730-0805 広島市中区十日市町1-5-5坪池ビル2F 
     日本ジャーナリスト会議広島支部内(090-8362-1142 高瀬)
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5・11 田中利幸講演会
 「日本国憲法の光と影:憲法前文・9条と1章『天皇』の根本的矛盾」

  今年を「勝負の年」と宣言した安倍晋三は、2020年公布と明言した改憲に向けて、
「二段階革命」戦略(まず自衛隊明記、次に全面的復古的改憲)に後退しながらも、突
進している。その半クーデター的手法(内閣法制局長官、日銀総裁、最高裁判事、NH
K会長、マスコミトップを手なずけ、官僚機構全体の人事への介入と操縦、解釈改憲の
強行と戦争法、秘密法、共謀罪新設・・・)と悪選挙制度の活用(得票率と得票議席の
乖離)で、この5年4か月政権を維持してきた。
 この安倍政治に抵抗し、安倍9条改憲をつぶし、多少ともまともな政治を回復しよう
とする社会・政治勢力(以下「われわれ」と呼ぶ)は多種多様な共闘関係を深めながら
創意工夫をこらしながら対決してきた。
 ここにきて天皇主義教育を掲げた森友学園への国有地8億円不正値引き売却の疑獄事
件を隠蔽するための公文書改ざんが公然化した。さらに加計学園獣医学部新設(異常な
設立認可、異常な補助金支出決定と建築費の水増し)を巡る巨大疑獄事件の中心が安倍
晋三その者であることがついに「首相案件」という言葉で白日の下にさらされようとし
ている。さらには、防衛省、自衛隊海外派兵の日報・データ改ざん・隠ぺい・国会無視
の軍国主義体質の根深さ。厚労省、働かせ方改革法案強行のためのデータ改ざん、東京
労働局野村不動産特別指導過労自殺隠ぺい事件・・・。木は森の中に隠せとの方針か?
 情勢は大きく展開した。安倍極右私党グループによる国家の、行政の私物化の姿が明
白となり、いよいよ安倍政権は終焉に向かって転がりだした。
 われわれが安倍政権打倒の向こうを見すえるには、どうしても戦後73年の総括が必
要だ(さらに明治以降150年のとらえなおしが必要だろう)。また、被爆と敗戦を巡
る日米関係・国際関係の中での攻防を経て誕生した日本国憲法に体現されている力関係
とそこに表現されている根本的矛盾を見なければならない。
 その根本的矛盾は、実は、憲法前文・9条と第1章「天皇」の間に深く横たわってい
るのだが、なぜか、それが今まで全く問題にされてこなかった。この矛盾の実相を知る
ためには、憲法9条とそれを理念的に支える憲法前文がいかなる政治的背景から作られ
たのか、天皇裕仁の戦争責任を全く問わないまま憲法第1章で「天皇」がなぜ国民の象
徴とされるようになったのか、それらがどのようにわれわれの日常の民主主義を求める
思考・行動と関連しているのかを解き明かす必要がある。
 そのうえで、われわれは安倍のようなデマゴーグ政治家を産み出す日本の政治社会を
真に改革するために、いかにこの憲法の矛盾と立ち向かい、憲法9条をいかにすれば有
効に活用できるのかについて議論する必要がある。安倍政権が終焉しても、憲法を実際
に生かす展望がわれわれになければ、問題はいつまでも解決しない。
 当実行委員会代表の田中利幸が満を持して、問題提起をする。
 題して、
 「日本国憲法の光と影:憲法前文・9条と1章『天皇』の根本的矛盾」

日 時:5月11日(金)18:30~20:00
会 場:中区民文化センター大会議室B(4階)
参加費:500円
主 催:8・6ヒロシマ平和へのつどい2018実行委員会(代表/田中利幸)
連絡先:広島市中区堺町1551001 
     電話:090-4740-4608 Fax082297-7145 
         
Eメイル:kunonaruaki@hotmail.com(久野成章)
 
田中利幸さんの広島訪問滞在は、5月10日と11日の二日間のみです。
 ぜひ、この貴重な機会に、ご参集ください。
 なお、終了後の田中さんを囲む懇親会には事前の申し込みが必要となります(締め切り5月5日)。

2018年4月13日金曜日

15年戦争史概観(III)


- 戦争責任問題を考えるための予備知識 - 
(3)日中全面戦争
*華北分離工作から「盧溝橋事件」へ
*日中全面戦争への拡大
*南京虐殺・軍性奴隷・毒ガス兵器
*日中戦争の泥沼化 

華北分離工作から「盧溝橋事件」へ
  さて、もう一度、中国における日本軍の動きに目を戻してみよう。すでに述べたように、1933年5月末の塘沽停戦協定で、日本軍は一旦華北への侵略を停止したが、1935年になると再び、「華北分離工作」と呼ぶ策動をめぐらせはじめた。「華北分離工作」とは、華北5省(河北、山西、山東、チャハル、綏遠<下の地図参照>)を中国から分離し、準満州国化するという計画であった。華北地域の鉄・石炭・綿花などの資源を獲得し開発することで、日満経済ブロックの自給自足性を高めようというのがその目的であった。 
地図中のページ数は無視してください
 
1935年6月には、支那駐屯軍(軍司令官・梅津美治郎少将)は、抗日事件の取り締まりや排日運動の禁止を口実に、河北省やチャハル省からの国民党軍の撤退や日本軍飛行場建設を要求。さらに11月には、親日の中国人政治家を利用して、塘沽停戦協定での非武装地帯に「冀東防共自治委員会」(「冀」は河北省の別称)なるものを発足させ、12月にこれを「冀東防共自治政府」と改称させた。この冀東政権ができると、日本の資本が急速にこの非武装地帯に進出。さらに冀東政権は、関東軍の指導の下、国民政府が定める関税率より極端に低い輸入税を設定したため、日本商品がこの地域になだれ込んだ。関東軍が裏で操る麻薬の密造・密売も盛んに行われ、天津では麻薬入りキャンディーまで売られた。さらに35年12月には、関東軍の傀儡部隊である徳王が率いる内蒙軍をチャハル省東部に侵攻させ、翌36年2月には関東軍の指導の下にチャハル省スニトに「蒙古軍政府」という傀儡政権を樹立させた。

  こうした日本側の露骨な動きが中国人の間での抗日運動をさらに激化させ、北平(現在の北京)、上海、青島をはじめ華北全土に抗日・日貨排斥運動が広がった。中国共産党は、1935年8月1日、「8・1宣言」を発表し、国民党に対して内戦をただちに中止して、抗日救国のために民族統一戦線を結成することを呼びかけた。関東軍によって満州から追い出され、国民党軍の指揮下に入っていた張学良が率いる軍隊は、延安の共産党軍と闘っていたが、1936年12月になって、共産党提案の抗日民族統一戦線を実現させるために、突然クーデターを起こし、西安を訪れていた蒋介石を監禁。中国共産党は周恩来を西安に派遣して調停にあたらせ、蒋介石に内戦停止と抗日連携を受け入れさせた。実際に抗日民族統一戦線での「国共合作」が打ち立てられたのは、後述するいわゆる「盧溝橋事件」の2ヶ月あまり後、つまり日中戦争が全面化した1937年9月になってからであった。しかし、結局は、日本の「華北分離工作」は、中国民族全体を敵に回すという状況を作ってしまったのであるが、その重要性を真に理解する軍指導者が、軍中央部にも現地陸軍にもいなかったのである。

  1937年7月7日の夜10時40分ごろ、北平(北京)郊外の永定河に架けられている盧溝橋付近で、日中両軍の間で小さな衝突が起きた。義和団事件(1900年に中国で起きた反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。この蜂起に押されて清朝政府が英米仏露日など8カ国に宣戦布告したが敗北)をきっかけに、1901年以来、日本軍は北平郊外に駐屯軍を置いていた。1936年の増兵にともなって、この支那駐屯軍である歩兵第1連隊第3大隊の第8中隊(清水節朗大尉が率いる135名)が、この夜、盧溝橋近くの荒蕪地で演習中に、中国軍が駐屯している龍王廟の方角から数発の銃声が響いた。清水中隊長が兵の点呼をとったところ、2等兵・志村菊次郎がいなかった。すぐにこの報告を清水から受けた第3大隊長・一木清直少佐は、即刻、連隊長・牟田口廉也大佐に連絡して部隊出動の許可を得た。ところが、行方不明であった志村は、点呼集合の20分後には無事に帰隊していたのである(志村が暗闇で迷って中国軍に近づきすぎたため、威嚇射撃を受けたのではないかと推測されるが、真相は分からない)。したがって、とにかく、この時点で問題は解決していたのであった。

  ところが一木大隊長は、「実弾射撃をやれば日本軍は演習をやめて逃げて行くという観念を彼ら[中国側]に与えるのは遺憾だから、これはどうしても厳重に交渉しなければならぬ……要するに日本軍の面目さへ立てばよいので……軍の威信上奮起した」と後日述べている(強調:引用者)。その結果、午前3時25分ごろ再び龍王廟方面から銃声が響いたのをきっかけに、夜明けを待って攻撃を開始。盧溝橋付近では、8日から10日まで中日両軍の間で戦闘が続いた。しかし、支那駐屯軍参謀長・橋本群少将、北平特務機関長・松井太九郎大佐、北平駐在武官補佐官・今井武雄少佐たちが事件収拾のために奔走し、11日夜8時になって、中国側と停戦協定が成立した。この協定内容は、(1)中国第29軍代表の日本軍に対する遺憾の意の表明と責任者処分、(2)盧溝橋城・龍王廟からの中国軍の撤退、(3)抗日各種団体の取り締まり、という中国側の一方的な譲歩であった。
日中全面戦争への拡大
  こうして現地では駐屯軍が停戦協定を成立させるために努力していたにもかかわらず、7月10日、「在留日本人保護のため」という(安倍政権の自衛隊派遣正当化にも使われている)理由から、陸軍中央は関東軍2個師団、朝鮮軍1個師団、内地3個師団の華北への派兵を決定。11日午後になって、日本政府(「盧溝橋事件」の1ヶ月前に成立した近衛文麿内閣)は、「事件が支那側の計画的武力抗日であることは疑いの余地はない。本日の閣議において重大決意をなし、北支那派兵に関し政府として採るべき所要の処置をなすことに決した」、との政府声明を発表した。11日夜に現地での停戦が成立したにもかかわらず、日本政府はこの決定を撤回することはせず、しかも「柳条湖事件」と同じように、この侵略武力行為をまたもや「戦争」とは呼ばず、「北支那事変」と命名して誤魔化した(戦争が拡大した9月2日には「支那事変」と改称)。その最大の理由は、中国に「宣戦布告」すれば、アメリカが中立法の発動によって軍需関連物資の日本への輸出を停止する恐れがあることであった。

  なぜ、停戦成立にもかかわらず、陸軍は戦争を拡大していったのか。実は当時、陸軍内部では、近い将来の対ソ戦を考えてここでは日中戦争不拡大の道をとるべきだと主張する、参謀本部第1作戦部長・石原莞爾を中心とする「不拡大派」と、この機会をとらえて中国軍に致命的な打撃を与えることで、一挙に華北支配を実現させようと考えていた作戦課長・武藤章や関東軍参謀長・東条英機らの「拡大派」との間に対立があった。いろいろな経緯から、結局は、防共・資源・市場の確保のために華北を制圧しようという「拡大派」の主張が勝って、近衛内閣の決定となったのである。「柳条湖事件」では、現地軍が謀略によって戦争を拡大したのに対して、一応、政府は不拡大方針を当初はとった。ところが、「盧溝橋事件」ではそれとは全く逆に、現地駐屯軍が停戦協定を成立させたにもかかわらず、近衛内閣は、事件が発生するや「重大決意」と称して、陸軍本部の決定どおりに早々と華北派兵を決定し、日本全体を「挙国一致」の戦争協力体制にまで押し上げた。「満州事変」から「支那事変」までの6年間に、いかに日本の政治がますます軍の思うままに動かされるようになったかを、このことは明示している。

  7月28日、日本軍は北平・天津に総攻撃を開始、30日までに両市を占領。(29日には親日の冀東政権の保安隊が反乱をおこし、日本のアヘン・麻薬密売に憤激した中国人民も加わって日本人居留民223名を惨殺する事件が起きている。)8月13日には、海軍も加わって上海への攻撃を開始。14日、海軍航空隊は台湾基地から杭州などを渡洋爆撃(海を越えての爆撃)し、翌15日には長崎県大村基地から首都南京への爆撃を開始。関東軍は、参謀長・東条英機中将の指揮下、支那駐屯軍に増派された第5師団(本部は広島)と連携してチャハル省内に侵攻し、8月27日には張家口を占領。かくして、日本軍は内蒙古、華北、華中の3地域への同時侵攻を推進し、9月初旬から1937年末にかけて各占領地に「自治政権」と称する傀儡政権を樹立した。華北では、1937年末までに河北・山西・山東の3省の主要都市と鉄道を支配下におさめ、12月14日に、華北占領全域の傀儡政権として「中華民国臨時政府」を北平に設立した。一方、国民政府側は、8月14日に「抗日自衛」を宣言し、翌15日には全国総動員令を出して、蒋介石が軍総司令官に就任。22日には、中国共産党軍の紅軍が国民政府軍第八路軍に改編され、前述したように、9月23日に国民党軍と共産党軍の「国共合作」が正式に成立して、日中間の戦争は文字通り全面戦争化した。

   日本軍が最も苦戦したのは上海であった。上海派遣軍は中国軍の猛烈な抵抗に直面したため、9月11日になって、3師団を増援軍として派遣したが、それでも苦戦を強いられ死傷者が続出。そこで11月5日にはさらに3師団から成る第10軍を杭州湾に上陸させ、11月13日にはさらに1師団を、上海の北西75キロ地点の揚子江下流に上陸させた。11月9日なって、蒋介石は上海からの撤退命令を出し、日本軍は11日にようやく上海を占領。日本側の戦死傷者数は4万人を超えた。

南京虐殺・軍性奴隷・毒ガス兵器
  上海を占領するや中支那方面軍司令官・松井石根大将は、参謀本部が定めた任務(上海付近の敵の掃滅)と作戦境界線を無視して、上海派遣軍と第10軍の諸部隊に南京攻略への先陣争いをさせた。3ヶ月も苦戦を強いられて多くの戦友を失い、疲労しきっていた上に、今度は南京に向けての進撃を命じられた兵たちはヤケクソな精神不満状態になった。しかも、急進撃のために、戦闘部隊に兵站部隊(前線の戦闘部隊に物資や食糧を供給する部隊)が追いつけなかったために、食糧は「現地にて徴発、自活」せよとの命令。「現地徴発」とは、早く言えば地元住民から「略奪」するという日本軍独自の用語であった。かくして、南京進撃の途上のいたるところで、日本軍将兵たちは捕虜・敗残兵を殺害し、民家に押し入って略奪。抵抗する市民には放火・暴行・虐殺で応酬した。(日本軍の「現地徴発(または現地調達)」はアジア太平洋戦争中に各地で行われたが、これがそれに伴う戦争犯罪行為<とくに市民の殺害と強姦>を引き起こし、それがさらに反日感情と抗日運動を高めるという悪循環を生み出したことが重大な特徴である。)

  12月13日に南京を占領するや、ここでも虐殺・略奪・強姦・放火などを行い、その後2ヶ月にわたりこうした残虐行為をくりひろげた。市街地をはじめ一般住民居住区が戦闘地域となる侵略戦争では兵士と民間人の区別が困難となるため、民間人の大量虐殺が起きやすくなるが、南京はその典型的なケースであった。逃げおくれた中国兵が軍服を脱ぎ捨てて、難民である一般市民の中に逃げこんだ。日本軍は「更衣兵(衣服を変えたゲリラ)狩り」と称して、一般市民の中からゲリラらしき者を選んで次々と処刑していったため、多くの一般市民も巻き添えとなった。ゲリラといえども、武器を捨てて抵抗する意志のない人間を法的手続きもなしに殺害することも戦争犯罪行為である。南京での中国人死亡者推定数は4万人から30万人と様々な説があるが、おそらく、どんなに少なく見積もっても十数万の中国人が日本軍による虐殺の犠牲になったと考えられる。

  このことは、南京に侵攻した高級軍人の一人、第16師団長・中島今朝吾中将の日記の中の以下のような記述からも明らかである。「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたれ共……之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当たらず、一案としては百二百に分割したる後適当のか処に誘きて処理する予定なり」。捕虜はとらず敵兵は全て殺害するという方針で、100〜200名の敵兵を一まとめにして殺戮し、屍体を「処理」=埋めるか河に流してしまうという方法をとると説明しているのである。第16師団は、このやり方で、12月13日の1日だけで約2万4千人の捕虜を「片付」けたと、中島は臆面もなく記している。こうした「片付」け=集団処刑が翌年の1月まで南京市内外のあちこちで行われた。日本軍は中国ゲリラ兵を「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗などを行う賊)」と呼んだが、日本兵こそ「匪賊」そのものであった。

  南京を占領した日本軍将兵が多くの女性を強姦・輪姦したことも、否定しがたい事実である。戦後の東京裁判には、中国人犠牲者の証言のみならず、日本軍が南京を占領した当時、南京市内に居住していた米英などの国からの宣教師や一般市民が実際に見聞した、日本軍兵士たちの性暴力の蛮行に関するおぞましい証言が提出された。昼夜を問わずあちこちで強姦・輪姦が行われ、拒む女性を銃剣で殺傷したケースが詳細に語られている。また、他の外国人居留者と協力して南京安全区国際委員会を立ち上げ、その委員長となり、中国人民間人を少しでも保護しようと努力したドイツ人商社員のジョン・ラーベも、日本軍兵士の蛮行について日記に詳細に記している。

  こうした大量強姦・輪姦が中国人の間に強烈な反日意識を生み出したため、これ以降、日本軍は性暴力犯罪を防止するという目的から、日本軍が侵攻する先々で軍専用の「慰安所」を設置するという方針をとることになった。「慰安所」は、1932年1月の「第1次上海事件」の時からすでに海軍が設置していたが、陸軍の「慰安所」が急増するのは、この南京占領の後からである。しかし、「慰安所」を設置しても強姦・輪姦を防止することは全くできなかった。

  「慰安所」で働かされた女性の中には日本人女性もいたが、その大半は当時植民地であった朝鮮と台湾の若い女性たちで、その多くが「看護婦見習い」とか「給仕」といった仕事で雇うと騙されて連れられてきた人たちであった。中国各地でも、日本軍は地元の女性を強制的に「慰安婦」にしていった。女性たちは、一旦「慰安所」に入れられたならば、長期間、兵士たちに性的奉仕を強制されたことから、彼女たちもまた強姦の犠牲者だったと言える。彼女たちの証言を読んだり聞いたりして分かることは、その実態は「軍性奴隷」と称すべき由々しい人権侵害であり、したがって女性たちは「人道に対する罪」の犠牲者であったことである。この「日本軍性奴隷制度」は、中国だけではなく、1941年12月の対米英蘭開戦の後には、日本軍が侵攻したアジア太平洋全域にわたって導入され、多くの東南アジア人やオランダ人女性も犠牲者となった。
  
  日中戦争が全面化すると、日本軍は大量の毒ガス兵器も使うようになった。使用された毒ガスはイペリット(びらん性ガス)、青酸ガス、ホスゲン(窒息性ガス)などであったが、それらは主に広島県大久野島で大量生産され、中国に輸送された。満州では、関東軍化学部が731(細菌戦)部隊と連携して毒ガス兵器の人体実験や訓練を行った。日本軍は、毒ガスを1937年から中国各地の実戦で使用し始め、いわゆる「ゲリラ掃討作戦」で423回以上使用し、3万3千人以上の兵士・民間人を殺傷。中国軍との正規戦では少なくとも1,668回使用して、4万7千人以上を殺傷した(うち死亡者約6千人)。日本軍は、敗戦前後に、保有していた大量の毒ガス弾を中国各地の十数都市で遺棄した。例えば、吉林省敦化市のハルバ嶺地区には、推定30万から40万発の日本軍の毒ガス弾が遺棄されたと言われている。戦後、それらの都市では、漏れ出した毒ガスで多くの住民が被害を受け、1947〜69年に行われた毒ガス弾回収作業では、作業中の事故で300人ほどが死亡したとも言われている。

  中国で日本軍が行ったもう一つの残虐行為は「三光作戦」と呼ばれるもので、「三光」とは、中国語で、殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、搶光(奪い尽くす)を意味している。1940年8月から10月にかけて、中国共産党軍は、華北で八路軍40万人を動員して総力をあげて日本軍を攻撃する「百団大戦」と呼ぶ作戦を展開して、日本軍に大きな打撃を与えた。これに対する報復として、日本軍は同年9月から、共産党の抗日根拠地を燼滅させる作戦、「晋中作戦」(「晋」は山西省を指す)を開始。この作戦では、(1)「敵性あり」と考えられる住民中15歳以上60歳までの男子は殺傷、(2)敵が隠匿または集積している武器弾薬や糧秣(食糧のこと)は押収または焼却、(3)「敵性部落」は焼却破壊する、の3つが命令とされた。つまり、「敵性あり」とみなされた者は殺戮し、所有物資は奪い、住居は燃やすことで、「敵をして将来生存するに能わざるに至らしむ」ことが目的とされたのである。この「三光作戦」展開中にも強姦•輪姦が頻発し、大量の毒ガス兵器も使用された。残虐なこの「三光作戦」は、「第2期晋中作戦(40年10〜11月)」と「三西西方作戦(40年12月〜41年1月)」でも行われ、41年8月から43年7月にかけては、北支那方面軍(司令官・岡村寧次大将)がチャハル省、河北省、河南省、山東省の各地で展開した「燼滅・粛清作戦」でも実施された。

  さらに日本軍は、中国共産党軍の活動を封じ込めるために、住民を強制移住させて無人区にし、幅6メートル・深さ4メートルの遮断壕や、幅1メートル・高さ2メートルの石垣で作った封鎖線を張りめぐらした。これらの遮断壕や封鎖線の長さは、総合すると1万1,860キロにも及んだと言われている。「三光作戦」と遮断壕・封鎖線設置作戦によって、1941年から42年の間に、華北地域の共産党解放区の面積は6分の1縮小し、人口も4千万人から2千5百万人にまで激減した。

日中戦争の泥沼化 
  1938年1月14日、国民政府はドイツを介して、日本側が提唱する「和平交渉」の日本側の要求の詳細を知りたいと日本側にアプローチ。翌15日の大本営政府連絡会議(1937年11月に設置された、大本営<戦時中に設置される陸海軍の最高統帥機関>と政府との間の協議のための会議。出席者は首相、外務大臣、陸軍大臣、参謀総長、海軍大臣、軍令部総長。幹事役として内閣書記官長、陸海軍の軍務局長が同席)で、参謀本部側は、将来のソ連との戦争準備を考慮して、この時点では早期講和を目指したほうが良いと考え、国民政府と交渉を続けることを提案。ところが、南京陥落で強気になっていた近衛首相は、交渉打ち切りを強硬に主張して参謀本部側の提案を拒否してしまった。これに対して、参謀本部側は、参謀総長・閑院宮載仁を通して、直接、裕仁に交渉継続希望を伝えようとしたが、裕仁は、一旦決まったものを変更できないと、閑院宮に会うことを拒否して、近衛の交渉打ち切り決断を支持したのであった。近衛は16日、「帝国政府は爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表した。こうして日本は中国との長期戦の泥沼に、自ら足を踏み込んでいくことになった。興味深いのは、通常、戦時中の政策決定では、往々にして軍部が国務側(政治家)を従属させていくのであるが、陸軍内部での(「拡大派」対「不拡大派」の)対立もいまだ残っており、首相が公家華族の名門のメンバーという威厳もあってか、このときは近衛首相のほうが軍部を圧倒した形となった。

  北平(北京)、上海、南京を占領した日本軍は、1938年5月19日に徐州を占領。8月末からは、中支那派遣軍の9個師団(約30万人という大兵力)を動員して武漢攻略作戦を開始。炎天下のマラリアと、首都を重慶に移して抗戦を続けていた国民党軍に苦しめられ、10月26日なってようやく漢口を占領し、武漢地区を制圧した。同時に日本軍は、中国軍への主要な補給路線である香港ルートの遮断を目指して広東作戦も展開し、10月21日に広東も占領。こうして中国の多くの重要都市と鉄道を占領はしたものの、 広大な中国全域、とりわけ内陸部の農村部を制圧することはとうていできず、これが日本の軍事動員力の限界であった。1939年までに、中国への日本軍派兵数は85万人という数に膨れ上がっていた。海外にこれだけ多くの兵員を駐屯させ、武器・弾薬などの必要物資を供給するには膨大な予算が必要となり、1938年度の軍事予算は60億円ほど(国家財政の77%近く)までに膨張してしまった。

  一方、厳格な規律と高い政治的理念を持った共産党の軍隊である八路軍や新四軍は、抗日戦での活躍で民衆からの支持が強まり、中国全土で4千万人もの民衆を支配下におくまで勢力を拡大していた。こうした中国共産党に対して強い不安を感じていた、国民党内部の反共派である国民党副総裁・汪兆銘らは、「対日早期妥協」を主張しはじめた。手詰まり状態になった近衛は、この汪兆銘を蒋介石政権から分裂させ国民党政府を弱体化させた上で、汪の新政権と講和しようと画策。1938年11月3日、「国民政府を対手とせず」という前言を取り消して、「東亜新秩序声明」なるものを発表し、蒋介石と絶縁した汪と交渉を始めた。ところがこの「和平建議」で、日本側は中国側に賠償を求めただけではなく、撤兵時期についても何も確約しなかった。こんな理不尽な日本の要求を受け入れる汪兆銘に同調してまで蒋介石に反抗しようという動きは国民党の中に起こらず、結局、日本政府の工作は失敗した。

  日本が中国で戦火を拡大したことは、英米などの列強諸国の中国での権益を侵すことになったため、英米は国民党政権を物的・人的の両面での支援を開始。日本にとっては仮想敵国であったソ連もこの支援に参加。そのような国民党の首都である重慶に、日本軍は無差別爆撃を1938年12月から1943年8月まで断続的に218回も繰り返し、合計2万人近い数の市民を殺害した。列強諸国からの援助があるため国民党政権は屈服しないと考えた日本側は、1938年後半からは支援ルートの遮断にも力を入れるようになり、1939年にはそのルートの拠点である海南島・南寧・汕頭を占領し、1940年には北部仏印(フランス領インドシナ<現在のベトナム・ラオス・カンボジア>)にまで侵攻。日本のこの武力南進がさらに英米との対立を深めることになり、結局、1941年12月の対米英蘭との開戦へと日本を追い込むことになった。

  その後も日本は、中国各地での共産党軍ならびに国民党軍との戦闘のために、1945年8月の敗戦まで、70万人から100万人という数の兵力を中国に常駐させなければならなかったのである。15年という長期にわたる戦争で、日本軍の犠牲になった中国人の数は1千万人を超えると言われている。

2018年4月6日金曜日

新刊・学習会案内


新刊案内

『思想の墟から: 歴史への責任、力への峙のために』
鵜飼哲 岡野八代 田中利幸 前田朗
四六判 / 240ページ / 並製
2,300 +
書店発売日:2018410

容紹介

民主主義の中にはデーモンが隠れている。
あるいは、民主主義の中からデーモンが生まれてくる
――
戦争責任、戦争犯罪、象徴天皇制、靖国参拝、
「慰安婦」問題、自衛隊、日米安保、沖縄米軍基地、
核兵器、原発事故、原発再稼働……
私たちの民主主義とはいったい何だったのか。
何度も問われてきたはずの問いを、
今なお私たちは問い続けなくてはならない。
フランス滞在から帰国後の思想家・鵜飼氏、
ハンナ・アーレント等、政治思想の研究者・岡野氏、
軍事史が専門の田中氏に、
前田朗氏がインタビューで鋭く斬り込む。

目次
はしがき - デーモンクラシーと闘うために

第1部 歴史、記憶、責任、そして
-
第1章 「慰安婦」=性奴隷について語る意味/岡野八代
第2章 世界の中の「慰安婦」問題/田中利幸
第3章 レイシズムに覆われた世界/鵜飼哲

第2部 権力としての原発、対峙する民衆
第1章 民主主義にとって原発とは/岡野八代
第2章 原発と原爆の密接なつながりを問う/田中利幸
第3章 私たちはどこにいるのか/鵜飼哲

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学習会案内

インタヴュー講座<憲法再入門>第4回 
平和力フォーラム2018

第4回日本国憲法の光と影――憲法前文・9条と1章天皇の根本的矛盾
田中利幸(歴史家、6ヒロシマ平和へのつどい代表)

日時:5月20(日)開場午後13時30分、開会14時~17時閉会
スペースたんぽぽ(4F)
千代田三崎町2-6-2 ダイナミックビル4F
03-3238-9035
JR水道橋から5分。

資料代:500円

プロフィル
田中利幸(たなかとしゆき):歴史学、争犯罪史。著書に知られざる争犯罪――日本軍はオーストラリア人に何をしたか(大月書店)、空の争史(講談社現代新書)、再論東京裁判――何を裁き、何を裁かなかったのか(共編、大月書店)、思想の墟から(共著、彩流社)。Japan’s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution during World War Ⅱ and the US Occupation(Routledge, 2002). Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War Ⅱ (Second edition, Rowman & Littlefield, 2017). Bombing Civilians: A Twentieth-Century History (Co-edited, New Press, 2010).

インタヴュアー:前田朗




2018年4月4日水曜日

森友スキャンダルとは何か

森友スキャンダルとは何か
極右私党の公権力私物化とその破綻
武藤一羊

私が日本で最も尊敬する評論家/活動家の武藤一羊さんの新しい書き下ろし論考を、武藤さんの許可を得てご紹介します。この論考はすでにピープルズ・プラン研究所のホームページにも載せられていますが、安倍晋三内閣の本質を知る上で、ひじょうに役に立つ秀悦した論考ですので、ここでも紹介させていただきます。

32日の朝日新聞の決裁文書改ざんの暴露は、くすぶっていた森友スキャンダルに再点火した。ふたたび安倍内閣の辞職を求める人びとの行動が沸き起こり、議会では野党が政府、自民党を追い詰め、かなりの主流メディアが安倍批判に回り、内閣支持率は大きく低下した。野党が要求していた佐川前理財局長の証人喚問は、佐川が刑事訴追の恐れを理由に肝心の点については証言を拒んだため、土地取引についても公文書改竄についても真相に迫ることはできなかった。だがそれは政権の犯罪への疑惑を一層深めた。安倍政権は危機的状況に追い込まれている。
しかし私は、この間の野党による安倍権力への攻勢は肝心なところで詰めが甘いという印象をぬぐうことができないでいる。肝心なものとは、(1)森友スキャンダルの性格をどう認識するか、(2)このたたかいで何をなしとげるか、という二点についである。この二つは重なっている。
国会での応酬を聴いていると、(2)については大部分の野党が一致しているようである。すなわち、安倍首相の辞任、安倍内閣総辞職、つまり安倍政権を退陣させることである。しかしそれは何を意味するか。安倍晋三という憲法を捻じ曲げ、議会を愚弄し、嘘を重ね、責任を取らぬ腐敗した政治家をその取り巻きとともに追放することなのか。そして安倍が最大の政治課題とした改憲の計画を頓挫させることなのか。
それらすべてであることは明らかだ。しかしそれだけでは足りないと私は思う。
森友スキャンダルは、この5年間の安倍統治の骨格を明るみに引き出した出来事であり、ほかならぬこのスキャンダルで安倍政権を打倒することは、その骨格全体を公衆の前に可視化し、解体し、廃棄することであると私は理解する。打倒するだけでは足りない。根を残してはならない。この前代未聞の不祥事の核をなす主体を特定し、明るみに引き出して公衆の目にさらし、政治の世界で無力化することが必要だと私は思う。
森友など一連の問題の本質が公権力の私物化にあるという点では広い同意が得られるであろう。だが私物化した主体は何者なのか。安倍晋三個人か、安倍夫妻か、官邸グループか、それとも自民党か。野党は、もっぱら、安倍昭恵を手掛かりに安倍晋三本人に迫るという線で攻勢を進めているかに見える。安倍の「私か妻が関係していれば総理も、議員も辞任」という発言を言質に安倍個人の責任に迫り、辞任を迫るためである。経過から言って、これはむろん当然追求さるべき筋である。
安倍本人がすべての中心に存在することは疑いない。しかしこれは安倍夫妻による狭い意味でのクロニイズム、近親者や仲間にたいする利益供与のケースであろうか。加計学園スキャンダルの方はその性格が強いかもしれない。しかし、森友問題の性格は違う。たしかにこれは公権力の私物化という性格の腐敗であるが、私は、その私物化の主体が個人でも一つの政治派閥でもなく、極右政治運動体とでもいうべきものであることがこの事件の本質であると考えている。そのことは安倍個人の責任を分散させたり、軽くしたりするものではない。いや、むしろ責任を加重する。安倍は自民党党首であるとともに、この極右政治体の代表でもあり、同時に首相でもある。この三面を背中合わせに結合する独特のトポロジー構造がここには確認できる。この構造は不正行為に対する彼の責任を格段に重くするよう働くのである。
安倍政権の成立に導いた推進力が1990年代の後半に加速的に勢力を拡大した大日本帝国の復権を唱える極右勢力であったことは改めて指摘するまでもないであろう。(この経緯、意味については、拙著「憲法平和主義と戦後国家―「帝国継承」の柱に斧を」、〔2016年、れんが書房新社〕で詳説したので、参照乞う)。安倍は自民党での政治生活の最初からこの潮流に属し、血統も手伝ってこの潮流の「プリンス」として扱われるようになっていった。この極右潮流は、「新しい教科書をつくる会」の運動などを通じて地域社会にも活動を伸ばした。神社本庁など宗教団体を含む極右団体の結集体である日本会議は、その国会版である超党派の日本会議国会議員懇談会をつうじて影響力を広げた。2012年以来の安倍政権の閣僚のほぼ全員が、日本会議系の極右組織のメンバーであることは広く知られている。この潮流は、在特会など排外主義的行動グループを生み出すとともに、夥しい反中、嫌韓、日本礼賛の出版物を書店にあふれさせ、ネットを通じて彼らの気に入らぬ論者に誹謗中傷を集中するなど、社会の各分野に活動を広げた。かれらのジャーゴンである「反日」というレッテルが平気で閣僚の口から発せられるようになったのは安倍内閣になってからである。
この極右運動は、戦後憲法に体現される国家原理―平和と民主主義―をアメリカ占領軍に押し付けられた原理としてことごとく拒否し、天皇制下の日本帝国の侵略と戦争を合理化する歴史観を正史の位置に置き、(不十分ながら)戦争と侵略の反省の上に立つ戦後の歴史観を「自虐史観」として攻撃することに専念してきた。
日本会議はこの極右運動の結集軸であるが、極右の活動全体が組織としての日本会議に集約されているわけではなく、政界、財界、メディア、宗教界、文化界、学会、芸能界など各界にわたった散在する極右傾向が重なり合いつつ極右世界とでもいうべきものを形成していると見るべきであろう。便宜上これらを合わせて「日本会議系」と呼ぶことにする。
自民党内では90年代、極右勢力が支配的になっていった。2006年、「戦後レジームからの脱却」を掲げた第一次安倍政権は、小泉政権の跡をついで、右翼の「お仲間」を基盤に成立し、改憲の第一歩として教育基本法を改訂したが、一年にして安倍は突如政権を投げ出した。2009年麻生自民党政権は、民主党に大敗を喫し、自民党は野に下り、政権は民主党政権に移った。野にある期間自民党は極右化していった。自民党は公党であるが、その公党からすれば私党である極右が公党を乗っ取ったのである。極右勢力はすでに90年代半ばから自民党の内部に勢力を拡大し、党内最大勢力となっていたから、党を乗っ取り、政権を乗っ取ることは容易であった。一度政権を放り出した安倍晋三はふたたび極右の旗頭に担ぎ出され、党総裁となった。
民主党政権はこの間に破綻していた。201212月総選挙で、民主党政権に失望した選挙民の多数は、自民党に圧勝をもたらし、安倍は総理の座を獲得した。党内では安倍一強体制が、政府組織では総理官邸独裁が成立した。
民主党政権を見放した選挙民の多くはこのとき長年政権党として親しんでいた自民党に投票した。自民党に投票した人びとの圧倒的多数は、自民党に投票したのであって、極右に投票したつもりではなかったであろう。自民党を公党とするなら、極右勢力は私党である。もし、極右勢力が自身の極右歴史観と政策を掲げる党として選挙に臨んでいたなら、彼らは確実に多数獲得に失敗し、政権につくことはなかったであろう。自民党というブランド名の下でのみ、極右私党が権力を握るという事態が起こりえたのである。
公党の傘のもとで私党が権力をふるうというのはかなり無理な話であった。公党は憲法のもとで公党であるので、憲法を公然と否認するわけにはいかない。他方乗っ取った方の私党は、憲法を否認し、破壊することを存在理由とする。公党の代表として総理となった私党の代表者である安倍晋三は、この不可能な状況を勇んで引き受けた。そして彼は、憲法破壊の私党の使命を自己の至上の使命としつつ、なお公党の見掛けを維持するという芸当によって困難を過程的に乗り切ろうと試みた。5年にわたる彼の支配がたどってきたジグザグー戦後70年の折衷的総理談話は代表的なケースであろうーは彼の政権の二股構造に由来すると見ることができよう。この困難からの出口は、憲法を事実上破壊しつつ(安保立法など)、最終的には憲法の方を彼らの要求に沿って改訂する、実は、まったく別の原理に従う彼らの憲法と取り換える、ことであった。
繰り返そう。2012年に実質権力を握ったのは、自民党のブランドを手に入れた極右私党だったのである。彼らは自己と自民党を等号で結ぶことで自民党を事実上私党化した。安倍晋三は、私党のリーダーのまま、行政権力のトップとなった。それは公権力の私党による支配、私物化をもたらす条件の出現であった。
安倍の率いる自民党は、公党としての地位を利用しつつ、直ちに私党としてふるまい始めた。私党の同志たちをNHK、日銀、内閣法制局、などの要職に任命することが手始めであった。内閣に集約された高級官僚の人事権を駆使して官僚組織を私党の組織としても使える状況を整えた。権力は全面的に濫用され始めた。特に2013年参院選での勝利以後は、安倍とその仲間たちは、議会を国権の最高機関などではなく、どんな決定でも通せる投票機械と見なし、憲法違反が疑われる法案を、真面目な討論を一切回避し、割り当てた審議時間さえ過ぎれば、自動的に強行採決し、採択するというしきたりを恒常化した。それは、政治にとって本質的であるはず言語から意味と品位を奪った。首相への質問には答えではなく、関係ない事柄での長い饒舌が返された。

安倍とその追従者の二重籍

では安倍晋三は実際誰に対して責任を負っているのか、と問わなければならない。安倍晋三が、総理として本来負うべき責任は、国会にたいしてであり、党総裁としては、彼の選出母体である自民党に対してである。憲法改正という最重要問題について、彼がまず提起するべき相手は自民党の執行部であり、かれを総理に選出した議会であると考えるのが自然であろう。しかし安倍は違った行動をとった。
安倍が、明確に改憲の狼煙をあげたのは、20151110日、日本武道館で開かれた「今こそ憲法改正を!1万人大会」という右翼の結集する大集会だった。この日の状況を情報サイトLiteraの記述から拾ってみよう。(Litera 20151111

(この集会の)主催は昨年10月に結成された「美しい日本の憲法をつくる国民の会」という団体だが、実態は、共同代表として櫻井よし子氏と並んで田久保忠衛・日本会議会長、三好達・日本会議名誉会長の名があるように、日本最大の極右組織・日本会議の“改憲キャンペーン大集会”だ。この日、会場につめかけた参加者は、主催者発表で11328人。武道館の駐車場には何台もの大型バスが駐車されていたが、これは、地方の日本会議が「12日の東京研修ツアー」などと称して、全国からシンパを動員していたからだ。…
そして驚くべきは、そんなカルト的極右組織の集会に、なんと安倍晋三が現役総理大臣として登場したことである。
70年間のときの流れとともに、世の中が大きく変わりました。この間、憲法は一度も改正されていませんが、21世紀にふさわしい憲法を追求する時期に来ていると思います」
「憲法改正に向けて渡っていく橋は整備されたのであります」
 そう改憲は眼前だと意気込むメッセージを寄せ、来場者から大喝采を浴びた安倍首相。当日の会場アナウンスによれば、安倍首相は本来会場入りして生演説を行う予定だったが、衆院予算委と日程が被ったため、やむなくビデオメッセージでの出演となったという。…会場には古屋圭司、衛藤晟一、下村博文、山谷えり子、新藤義孝、城内実、有村治子、礒崎陽輔……など安倍首相の盟友や側近をはじめ、多数の政治家が来賓として出席していたが、彼らが所属する日本会議国会議員懇談会の特別顧問を務めるのが、他ならぬ安倍晋三だ。

これが安倍が、いよいよ改憲の時は来た!と宣言した最初の場所だったことは何を意味するだろうか。閣議も、党議も、国会も一気に飛び越して、日本会議の大集会で、改憲という最も公的な事柄について最初のアピールをおこなうとは。この集まりは、安倍にとってもう一つの議会なのではあるまいか。ここにずらりと顔を並べた現役の極右政治家たちも「本籍」はここにあるのではないか。かれらは、公党たる自民党には一種の「加入戦術」として加わっているのではあるまいか。
極めつけは、安倍が、92項維持プラス自衛隊という今回の改憲提案を最初に行ったのも日本会議系の集会だったことだ。201753日憲法記念日に開かれたこの集会は、日本会議系の「美しい日本の憲法をつくる国民の会」と「民間憲法臨調」共催の「憲法フォーラム」というものである。そこには衆院の憲法審査会の自民、公明、維新などのメンバーも参加していたという。この集会に、安倍は「自由民主党総裁として」彼の改憲についての全面的な見解を盛ったメッセージを送り、そのなかで「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」ことを提起した。自民党の中でも一度も提起されたり、議論されたりしたことのない提案であった。
58日、民進党の長妻昭議員が、自民党の2012年憲法草案に「基本的人権の尊重」がないことについて安倍総理に質問したのに対して、安倍は読売新聞のインタビューで詳しく述べているので、それを「熟読」せよ、と答えて満場を唖然とさせた。安倍の頭には、国会への応答責任という観念が存在しないかのようである。
一国のリーダーが、全国民に対して所信を述べる、あるいは訴えをおこなうということはありうる。しかし安倍が、改憲という国家にとって最重要なことがらでの方針提起をまず行った相手は全国民ではなく、極右政治団体の集会であった。安倍は、この極右政治世界に対してまず報告し、提案し、承認を求めることを必要と考えているのだ。
一国の総理がそのようであるとき国家は解体に向かう。彼は総理なので公式の行政の長である。したがって公権力外の手続きで成立した彼の決定は、公権力を通じて実施される。公権力外での決定は、法の外にあるので、合法的とは限らない。しかしどうであれそれは公権力の手続きを通じて実施されうるし、されている。それが野党やジャーナリストによって追及されると、ありえないような理屈が発明され、大真面目で主張される。論理的に破綻しても意に介さない。同じことを言い続ける。
この異様な関係は、それ自体として野党の追及の対象にはならなかった。安倍が、首相であるのに、なぜ重大な決定や決意表明を議会に向かって行わず、いつもまず日本会議系の集会に向かって行うか、と厳しく詰問し、それ自身を議会への侮辱として議題にすることもしなかった。結果として私党の優先は黙認された。

誰が公権力を私物化したかー憲法破壊者の全姿を明るみに

森友スキャンダルの核心が、公権力の私物化にあることは明らかであるが、さて私物化したのは誰か。すなわち私物化の主体は誰か。そう正面から問うべきである。答えは、安倍を代表者とする極右私党そのものであるというのが、私の回答だ。なぜなら籠池プロジェクトへの肩入れは、(籠池本人を別とすれば)極右私党にのみ有利に働くものだったからである。安倍晋三夫妻はこの不正な肩入れによって私的利益を得るわけではない。しかし私党のトップである安倍晋三の全体計画にとって、森友が先進的極右教育のモデルケースとして例外的扱いに値するものだったのは間違いない。彼とその私党の観念の中では、森友学園の園児教育は、あまりにも「先進的」なので、まだ一般化はできないにせよ、驚嘆すべき模範であると考えられていたことは疑いない。安倍昭恵は、ここで教育された園児が小学校に入ってせっかく学んだ良き資質を失ってしまうのはもったいない、という趣旨のことを述べたと伝えられたが、安倍夫妻ばかりでなく、極右私党がこの学園をさらに広めるべき模範と位置付けていたことは明らかであろう。日本会議系の有名人たちが次々とこの学園詣でをし、講演したり、賛辞を送ったりしていたのである。そこにはある極右文化圏とでもいうべきものが形成されていて、その内部に通用する常識があったに違いない。安倍は、権力を握った私党の代表である以上、このモデルに特別の便宜を図るのは当然のことと考えられたであろう。しかしこの安倍が同時に行政府を率いる総理であるので、私党指導部(官邸)は官僚にその意向を公式、非公式に伝達し、公式の行政手続きに移すことができた。私党の意向を公権力のパイプでながしたのである。(伝達の方式については、加計学園についての国会審議のなかでかなり具体的に明らかになっている)。森友のケースでは、安倍明恵経由という傍系の経路も加わって、私党の意思に従って官僚が動かされ、私党の意思が貫徹された。
森友問題の解明とは、この私党と公党と公的機関の特殊な癒着構造を明るみに出すことであるべきなのである。それは私党が公党を乗っ取ったことで実現した私党による公的行政機関の支配であり、その私党は現行憲法を破壊することを目的としている存在なのである。
森友スキャンダルについて、野党の質問者は、安倍が、幼稚園児に教育勅語を暗唱させているこの学園をどう評価していたか、を徹底的に追及すべきであった。妻の明恵が、籠池夫妻と昵懇であり、学園の教育内容をたたえ、名誉校長を引き受けたことを当時どう受け取っていたか、をただすべきであった。そして、彼自身は森友モデルをどう評価していたか、をただすべきであった。彼と彼の妻が、この極右学園の教育方針と教育実践を高く評価していたことは明らかである。だからこそ安倍自身が講演の約束までしたのであろう。
これは国有地問題とは別に問われるべき質問である。なぜ、彼も彼の妻も、また少なからぬ自民党の国会議員が、この学園の教育を高く評価していたのか、その理由をまず糺すべきである。そして彼の森友学園の評価は、彼の内閣の一般教育の政策とつながるのかどうかを糺すべきである。土地問題、改竄問題を通じて、このスキャンダルの下部構造に迫るべきである。ここに露頭として表れているのは、組織としてもイデオロギーとしても、極右が公的な領域に侵入し、根を下ろし、憲法の土台を掘り崩しつつある姿である。その全身が公衆の目にさらされることが必要である。
それは改憲問題全体を新しい姿でわたしたちの面前に立ち上げるかもしれない。

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